2005・5・29

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「神への愛」

村上 伸

申命記6,4-9ヨハネ福音書5,41-47

  

今日の本題に入る前に、5章1-8節に記された出来事に目を留めておきたい。

エルサレムの羊の門のそばに、「ベトザタ」あるいは「ベテスダ」と呼ばれる池があった。一定の間隔を置いて水が湧き出す「間歇泉」であったと思われる。「水が動く」(7)とあるのはそのことだろう。その時、すかさず水中に入れば病気が治ると言われていて、実際、ある程度は効き目があったのだろう。池の周りには五つの回廊が作られ、大勢の病人や障碍者がそこに身を横たえて水が動くのを待っていた。

その回廊で、主イエスは「38年間も病気で苦しんでいる人」(5節)と出会ったという。苦しいときには、時間は無限に長く感じられるものだが、この人の苦しみは38年間も続いたというのだ。それは、ほとんど一生である。そんなに長く病苦に苛まれ、気力も萎えていたこの人に、イエスは目を留める。最近は、周りにいる人々に対して鈍感な人が増えているが、イエスは特に他者の苦しみに対して敏感であった。「良くなりたいか」(6節)という問いも、鈍感な人の鈍い問いなどではない。むしろ、真の意味での「同情」(共に苦しむ)であったろう。だからこそ、病人は堰を切ったように心に鬱屈していた思いを吐き出す。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りていくのです」(7節)

だが、その言葉を聞くと、直ぐにイエスは彼に厳しく、権威をもってこう命じた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(8節)。いつまでも他人を当てにして泣き言ばかり並べていないで、立って自分の足で歩くのだ! イエスは、多くの宗教のように依存する人間を作らない。出会う一人一人を、自立した人間にする。この厳しさが本当の意味で救いになる。このことも、序でながら記憶しておきたい。

ところで、イエスがその病人を癒された日は安息日であった。ユダヤ教の戒律では、安息日に日常の仕事をすることはすべて禁じられる。当然、病人を癒したイエスの行為も律法違反である。ファリサイ派のユダヤ人たちが「イエスを迫害し始めた」 (16節) のは、そのためであった。そればかりではない。意図的な律法違反は死刑と決まっていたから、彼らは「イエスを殺そうと狙うようになった」(18節)

イエスが今日の所の43節で、「わたしは父の名によって来たのに、あなたたちは(=ファリサイ派のユダヤ人たちは)わたしを受け入れないと言ったのは、そのことである。そして、その意味はこうである。

イエスは、「神は愛である」(第1ヨハネ4章7節)ということを深く知り、それを自らの生涯をかけて徹底的に明らかにされた方であり、その意味で「父の名によって来た」方であった。彼は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)と言い、また、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(同13章34節)と言われた。「愛」が全人類に与えられた「新しい掟」なのであり、これに拠らなければ人類は共に生き抜くことができない。また、彼はマタイ福音書22章37節以下で、律法全体と預言者(=旧約聖書の全体)は、結局のところ、二つの愛の掟に尽きる、と言われた。すなわち、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記6章5節)。そして、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19章18節)。そして、この「神への愛」と「隣人への愛」は、決して切り離されない。

そのようにひたすら愛に生きた彼は、38年間も病苦に悩んできた人が疲れ果てて目の前にへこたれているのを見て、放っておくことはできなかった。だから、それが安息日律法に違反する罪に当たると知りつつも、助けの手を差し伸べずにはおられない。主イエスとは、このような方であった。その方を、ファリサイ派のユダヤ人たちは受け入れようとしない、そればかりか、律法違反の罪で宗教裁判にかけ、死刑を宣告し、十字架にかけて殺してしまった。

むろん、いい加減な気持ちでやったのではない。彼らはごく真面目な人たちであった。今日のところでイエスが、「あなたたちは、モーセを信じた」(46節)と言っているように、彼らはモーセ律法に対してはこの上なく忠実であり、その意味では心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして「神を愛して」いたのである。

しかし、この「神への愛」が、隣人を愛して生きた「イエスを殺す」ことにつながったということ。これは、世界史の真只中で起こった最大の矛盾である。そして、この悲劇は今日も繰り返されている。すべての戦争が「正義」を唱えることによってなされたように、熱心に正義を唱える人々ほど他者を裁いたり殺したりする。「神を愛する」という人々が、隣人を殺す。原理主義化された神は、人を殺すのである。

マハトマ・ガンジーは、イエスの『山上の説教』に感銘を受け、「絶対非暴力」を掲げて民族和解のために献身的に働いたが、そのガンジーを殺したのはヒンドウー原理主義者であった。今、パレスチナの人々に終わりなき苦しみを与えているのは、ユダヤ教原理主義を信奉するイスラエルである。キリスト教原理主義者たちはイラク戦争を正当化した。それに対して、イスラム原理主義者たちは「聖戦」を叫んでテロを繰り返す。これが私たちの世界の惨めな現実である。

だが、イエスは、モーセ律法を重んじると言いながら隣人を平気で殺す人々に向かって、「あなたたちの内には神への愛がない」(42節)と言った。「隣人への愛」を欠いた「神への愛」など存在しないということを、心に刻みたい。



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