2005・5・22

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「キリストの手紙」

廣石 望

エゼキエル書11,14-20コリント人への手紙二 3,2-6

「キリストの手紙」という説教題をご覧になって、「そんな手紙が新約聖書にあったかな」とお考えになった方がいらしたかも知れません。もちろん、キリストが書いた手紙が聖書に収録されているわけではありません。

そもそもイエスは、文書による伝道をしませんでした。彼は、むしろ身体を動かして「神の国」を宣教しました。イエスは故郷の家と家族と財産を捨てて、荒れ野に出て行きヨハネから洗礼を受けました。またヨハネのもとを離れた後は、乞食坊主のようになってガリラヤの村々を巡り歩いて、「救いをもたらす神の力は近い」と告げてまわりながら、身体や精神に障碍をもつ人々を癒して家族のもとに帰し、平民から弟子たちを集め、女性たちと対等に話しました。そのままでは神の前に無資格であると見なされた人たちを、そのまま受け入れて一緒に食事をしました。そんなイエスは、当時の宗教戒律をときには大胆に解釈し、場合によっては無効と見なしました。イエスは、ある年の過越の祭りのとき、放浪生活をともにした弟子たちや女性たちと一緒にエルサレムに巡礼して神殿を参拝しました。そして、この神殿は崩壊するだろうと預言します。境内では両替人の机をひっくり返すなどの騒ぎも起こしたようです。やがてこれがユダヤ当局の知るところとなり、彼は当時のユダヤを支配していたローマ帝国の軍隊によって磔の刑に処されました。

その後、そのように生きて死んだイエスは神の命の中を活きているという信仰、つまり復活信仰が生まれました。この信仰が、イエスこそキリストであるという信仰告白の根っこにあります。復活信仰が生まれるきっかけは、イエスの死後に、活けるイエスとの出会いを経験した人たち、つまりイエスの顕現に接した人たちがたくさんいたことにあります。先ほどお読みした『コリントの信徒への手紙二』を書いたパウロという人物も、そのような体験の持ち主の一人です。

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パウロは最初期のキリスト教会における伝道者の一人です。自分は復活の主イエスに出会い、このキリストを人々に、とりわけ異邦人に伝えるようにという使命を受けた「使徒」であるという自覚を、彼は持っていました。パウロは主として小アジアとエーゲ海沿岸の諸地域に、たくさんの教会を作りました。彼は旅先から、自分が設立した諸教会に宛てて、多くの手紙を書いています。パウロは、現在の通常の牧師とは異なり、ちょうどイエスが故郷を捨ててガリラヤの諸地方を放浪したように、一箇所に定住しないで旅に生きた伝道者の一人でした。

コリント教会もパウロが設立した教会です。新約聖書には、彼がコリント教会に宛てたとされる手紙が二通収められており、それを読むと、この若い教会の歩みがさまざまな紆余曲折を含むものであったことがよく分かります。コリントはエーゲ海とアドリア海をつなぐ地峡という交通の要所に位置する都市でしたので、人の行き来がたいへん盛んでした。そしてそこにはパウロ以外の、しかしパウロと同じように旅行してまわるキリスト教伝道者がたくさん訪れたのです。

そのようにしてコリント教会を訪問した伝道者の中には「推薦状」、より正確には「紹介状」を持参する者がいました。古代地中海世界には、紹介状を書く習慣がありました。紹介者は、ある人の資格や有能さと、その人との個人的な関係を手紙に認め、先方の人々との信頼関係に訴えながら、自分に対する彼らの善意と好意を、紹介状を持参する者に対しても示してくれるよう頼んだのです。パウロ自身も、ローマ教会に宛てた彼の手紙の中で、一人の女性を紹介しつつ、彼女を迎え入れて必要に応じた援助を与えてくれるよう頼んでいます(ロマ16,1-2)。ユダヤ教社会においても、例えばエルサレムから外国に移住する同胞のために、当地の会堂に宛てて紹介状が書かれました。

おそらくコリント教会にやってきた伝道者は、それ以前の活動先であった教会からの紹介状を持参したのでしょう。彼らは、コリント教会を去るときにも、次の教会に宛てて紹介状を書いてくれるよう頼んだかも知れません。すると、これは一種の証明書付きの履歴書のようなものです。

問題は、このようなかたちでコリント教会を訪れたキリスト教伝道者の中に、教会の創設者であるパウロの「使徒」としての資格と権威に疑いを差し挟む人たちがいたらしいことです。そもそもパウロは、キリスト教徒になる以前は、熱心なファリサイ派の律法学者として教会を迫害したという前歴の持ち主です。そして使徒となった後の彼は、説教が下手なせいで聴衆が退屈したり、持病のせいで旅程の変更を余儀なくされたり、あるいは騒動に巻き込まれて町を追われたり投獄されたりといった具合で、彼のキャリアは必ずしも華々しいものではありませんでした。こうした状況から、パウロは使徒である自分とコリント教会の関係を、もう一度考える必要に迫られたのだと思います。

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そのパウロは、コリント教会の信徒たちに向かって、「私たちの推薦状はあなたがた自身です」と言います(2節)。この文章の主語は、日本語では逆に見えるかも知れませんが「あなたがた」、そして述語が「私たちの推薦状」です。パウロは、教会共同体を手紙に譬えながら手紙を書いています。信徒たちは、自分たちが推薦状を受け取ったり執筆したりするものだとばかり思っていたので、パウロから君たち自身が私たちの推薦状だと言われて、たいへん驚いたと思います。

続けてパウロは、コリント教会がどのような意味でパウロたちの推薦状であるのかついて、三つの発言を行います。そもそも教会共同体は手紙ではありません。それでもあえて教会を手紙に譬えることで、パウロは驚くべき新鮮な洞察を私たちに示してくれます。順番に見てゆきましょう。

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最初の発言はこうです。「それは、私たちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています」(2節)

この発言の前半は推薦状の保管場所についての発言です。パウロの心の中に、彼の「推薦状」としてのコリント教会は大切に保管されているのです。教会は人であって、推薦状のようなモノではありません。人を保管できるのは、人の心だけです。ここから分かるのは、パウロとコリント教会の密接な結びつきです。心にしまわれた人々との関係は、手紙のかたちでポケットに保管される人々との関係よりも、ずっと親密です。

他方で発言の後半は、宛先に関する発言です。手紙としてのコリント教会は、パウロとともに彼が伝道活動を行う先々へと運ばれてゆき、そこで「すべての人々」から知られ、かつ朗読されている。パウロの存在そのものがコリント教会を表しています。

こうして内面性と公開性が結び合わされます。手紙が保管されている「心」とは、本来は神の前でだけ明らかな人間の最も深い内面です。そこに刻み込まれたコリント教会が、同時に「すべての人々」に向けられた手紙だと言われています。パウロとコリント教会の関係は、非常に親密でプライベートな、それでいて極めてパブリックなものなのです。

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第二の発言は、「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています」(3節)というものです。

手紙には執筆者がいます。パウロたちの紹介状であるコリント教会を執筆したのはキリストご自身です。「わたしたちを用いて」と新共同訳聖書で訳されている箇所は、原文では「わたしたちによる奉仕の結果」とあります。コリント教会を作ったのは人間でなく、キリストです。パウロたちは、そのための奉仕者にすぎません。教会はこの世で公にされたキリストの手紙です。

コリントに推薦状を持参した人たちも、自分たちを「奉仕者」と呼びました(2コリ11,23)。しかし彼らの推薦状には、「どこそこ教会の設立に際して大いに奉仕した」と書いてあったかも知れません。パウロは、教会を手紙に譬えることを通して、キリストと教会と使徒の関係を、もっと正確に捉えようとしています。コリント教会は、自分たちの「著者」がキリストであることを自覚し、そのことを内外に証言するその限りにおいて、使徒パウロにとっての推薦状です。なんと素晴らしい教会理解でしょう。

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そして第三の発言は、「墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に書かれた手紙」(3節)という表現です。

これは筆記用具と筆記素材に関するものです。今でも私たちの身分証明書は、戸籍謄本から履歴書に至るまでインク(墨)で書かれています。これに対してパウロは、キリストの手紙である教会は、「生ける神の霊」という筆記用具で書かれていると言います。「生ける神の霊」という言葉は、イエスの復活の出来事と聖霊降臨の出来事を指しています。イエスを死者たちの中から起こし、彼に新しい命を与えた「生ける神の霊」は、ペンテコステの出来事を通して教会全体の出来事になりました。私たちもまた、そのような創造的な力を用いて書かれた存在です。

他方で「石の板ではなく人の心の板に書かれた」という発言は筆記素材、つまり何にこの手紙が書き込まれているかに関するものです。古代における通常の筆記素材はパピルスや羊皮紙です。しかしパウロは、それに代わって「石の板」と言います。これは、いうまでもなくモーセの十戒を暗示しています。モーセの十戒は、二枚の石版に「神の指で記された」と旧約聖書にあります(出31,18)。元来、碑文のように石に書かれたものは、パピルスや羊皮紙に書かれたものよりもずっと長持ちします。しかしパウロは、これを「人の心の板」(原文では「肉の心という板」)と対比させます。教会は「肉の心」という板に書かれたキリストの手紙だというのです。「石」と「肉」の対句表現には前史があります。預言者エゼキエルは、こう語りました。

「わたしは彼らに一つの心を与え、彼らの中に新しい霊を授ける。わたしは彼らの肉から石の心を除き、肉の心を与える」(エゼ11,19)

こうして、一見するとパピルスよりもずっと優れた筆記素材である「石」は、イエスがその崩壊を預言したエルサレム神殿と同様に、むしろ頑なさの表現、やがて「肉の心」によってとって代わられるべき暫定的なものと見えてきます。「肉」とは元来、過ぎ去り行くものです。そのような存在の中に「新しい霊」が授けられるとエゼキエルは預言しました。パウロは、教会とは死すべき私たちの身体を通して、イエスを死者たちの中から起こした「生ける神の霊」が働く場所だ、そのような存在としてキリストの手紙だと言うのです。

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これまで見てきた箇所を文語訳聖書は驚くほど正確に、また格調の高い文章で訳していますので、ご参考までにお読みします。

「汝らは即ち我らの(ふみ)にして我らの心に(しる)され、又すべての人に知られ、かつ読まるるなり。汝らは明らかに我らの(つとめ)によりて書かれたるキリストの(ふみ)なり。しかも墨にあらで活ける神の御霊(みたま)にて(しる)され、石碑(せきひ)にあらで心の肉碑(にくひ)(しる)されたるなり。」(表記を一部変更)

このような教会に仕える者として、パウロは「新しい契約」について語ります。「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」(6節)。――ここでは一つのことだけ申しあげます。それは「新しい契約」の新しさはどこに現われるかということです。それは、「命を与える霊」となったキリスト(1コリ15,45)によって、私たちの心が今ここで新しくされるという出来事の中に示されます。キリストの手紙が刻み込まれた私たちの心が、この世界において「新しい契約」を読みとることのできる唯一の場所なのです。

パウロが明らかにしたように、キリストの名によって立てられたすべての教会とともに、私たちの教会もまた、全世界に宛てられたキリストの手紙です。私たちはキリストの生きた手紙です。私たちを生かしているのは、ガリラヤの村々を行きめぐって「救いをもたらす神の力は近い」と告げてまわったイエスの精神、そのイエスを死者の中から呼び起こした生ける神の霊です。私たちはその精神によって生かされ、柔らかい肉の心でこれを受け止めて「キリストの香り」を放つ者となり(2,15)、同時に「肉の心」を「石の心」に置き換えようとする悪の力に注意深く抗いながら、日々の歩みを続けたいと願います。



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