2005・5・8

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「生きた水の流れ」

村上 伸

哀歌3,1-24ヨハネ福音書7,37-39

 先日テレビのスイッチをひねったら、日本の高齢者グループがこの3月、中国・新疆ウイグル自治区にあるタクラマカン砂漠を徒歩で旅したという壮大な話を放送していた。60から70代の十人ほどで、中には女性も何人かいる。15頭の駱駝に水や食料、必要な機材などを満載し、ウイグル族の人々の案内で歩き始めた。「本当に大丈夫なのかな」と、見ていて心配になる。

 この旅を計画した中心人物は70代後半(?)の男性だ。若い頃スウエーデンの地理学者で探検家でもあったヘデインの『旅行記』を読んだ。スヴェン・ヘデイン(1865−1952)は東トルキスタンやチベットなどを踏査し、楼蘭の古代遺跡を発見するなど、中央アジア研究に偉大な足跡を残した人物として知られている。その『旅行記』を読んで感動した彼は、いつか憧れの砂漠へ行き、自分の目で美しい夜明けを見、自分の足で砂の上を歩きたいという夢を持ち続けていた。ようやく職業生活の束縛から解放されて自由になり、少しはお金も貯まった。体もまだそんなに弱ってはいない。今のうちに夢を実現しようと計画を具体化し始めた。すると、それを聞いて共鳴した人たちが次々に名乗り出てきて、遂にこの探検隊が結成されたというわけである。

 今、私たちの教会では「高齢化」が話題になっている。そのような時にこの番組を見て、私は勇気づけられた。何も砂漠へ行かなくてもいいが、いくつになっても夢を持ち続けることは可能なのである。預言者ヨエルは、神が霊を注がれるとき、「老人は夢を見、若者は幻を見る」ヨエル書3章1節)と言ったではないか。

だが、改めて言うまでもないが、この探検旅行は容易ではなかった。皆、高齢者だから、疲れが溜まると先ず膝にくる。途中で病気になって脱落する人もいる。全員の疲労が間もなくピークに達する。しかも、予想よりも早く水が底をついた。隊員だけでなく、ガイドや駱駝たちとも分け合わなくてはならないからだ。

 今日読んだヨハネ福音書7章37節には、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」という招きの言葉がある。咽喉が渇いた人は、たっぷり水を飲む瞬間をどんなに待ち焦がれることであろう! そして、水がゴクゴクと咽喉を通るとき、どんなに生き返ったような気持ちがすることであろう! イエスも宣教旅行の途中で、何度もこうした渇きを体験されたに違いない。実感がこもっている。

 この探検隊の人々も、同じだった。水が一滴もなくなるかもしれない。その不安に耐えて歩いて行く。すると、いつの間にか砂漠のあちこちにさまざまな植物が姿を現し始め、それが次第に密度を増す。突然、前方に氷で覆われた大きな川が現れる。ためしに水を口に含んだ隊長が、「飲める!」と太鼓判を押す。歓声が上がり、安堵の笑いが広がる。女性たちが一斉に歯磨きを始めたのは、何かおかしい。

 だが、問題はまだまだ続く。探検隊は、先ずこの氷で覆われた川を渡らねばならない。それは実に難しい仕事だった。3月になるともう氷は融け始めていて、重い荷物を背中に載せた駱駝の重みに耐えられない。一頭の駱駝が氷を割ってズブズブと水中に沈み始めた。やっとそれを助け出して、一同がなんとか無事に向こう岸に渡ると、今度は別の厄介な事態が待ち構えていた。

一頭の駱駝が仔を産んだのだ。その仔は砂の上にグッタリ横たわっていて、自分で母親の乳を吸うことができない。このままでは死んでしまう。それを見た一人の女性隊員が、その駱駝の仔を抱いて柔らかい布で体を優しく拭いてやり、誰かが搾った母親の乳を口に含ませてやった。他の隊員は近くで焚き火をして、冷え切った駱駝の体を暖める。その甲斐あって体温は次第に上がり、その仔はヨロヨロしながらも自分の足で立ち上がる。もう大丈夫だ! その女性隊員は、このように厳しい自然条件の中で「いのちの誕生」という現場に出会い、「生命力の神秘」に触れたことがこの探検旅行の中で最大の経験であったと、感動を語っていた。私も、その感動を共有した。

 水にありついたのも、嬉しいことだったに違いない。実際、人は水がなければ生きて行けない。だが、冷え切って死にかけていた駱駝の仔を抱きしめて、「大丈夫だからね」と優しく声をかけながら必死で全身をさすって上げたあの女性の掌に、徐々に体温が戻って来るのが感じられたときの喜びと感動は、水が見つかったときとは違う、それよりもずっと深い、内面的な喜びだったであろう。この女性の経験は、今日のテキストの38節にある、「わたしを信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出る」という主イエスの言葉と重なって理解される。

「わたしを信じる者」とは、単に「イエスが救い主であると教条的に信じる者」とか、「その信仰を口で告白する者」という意味に留まらない。むしろ、イエスが野の花や空の小鳥、子どもたちや社会で最も弱い立場にある人々の、どんなに小さないのちをも大切にされたことに感謝し、それに共感する者のことである。

自分の力を恃み、自分の権力や財力を誇り、それによって他者を支配しようとする人が現代の世界には満ちている。だが、そういう人は、自分たちの「内から生きた水が川となって流れ出る」という真の喜びは経験できないだろう。彼らの内には癒されることのない渇き、渇望が燃え盛る。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします」ヤコブの手紙4章1−2節)。

イエスは「最も小さないのち」を大切にされたと信じるとき、「その人の内から生きた水が川となって流れ出る」。このことを教えてくれるのが「聖霊」なのである。



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