2005・1・16

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「神の顕現」

村上 伸

出エジプト記3,1−10マタイ17,1−10

 モーセは、紀元前13世紀ごろの人である。エジプトで奴隷であったユダヤ人(レビ族)の夫婦の間に生まれた。不思議な巡り合わせでファラオの王女の子となるが、40歳になった頃、イスラエル人としての民族意識に目覚める。ある日、重労働に服する同胞を殴るエジプト人を目にとめた彼は逆にそのエジプト人を殴り、死なせてしまう。このためにエジプトにいられなくなり、ミディアン地方に逃れ、土地の祭司エテロの娘と知り合って結婚する。やがて子供も生まれ、40年という長い年月が経過した。そのまま片田舎の羊飼いとして一生を終わるかと思われた。

 ところが、80歳になったとき転機が訪れてモーセは否応なしに世界史の表舞台に引き出される。その波乱万丈の物語は、出エジプト記3章でこういう風に始まる。「モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエテロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た」(1)。

 その山の中で、彼は不思議な光景を目撃する。「柴(木幡訳では茨の潅木)の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない」(2)。いぶかしく思ったモーセは、もっとよく見届けようとして脇道に入った。そのとき、神は柴の間から「モーセよ、モーセ」と彼に呼びかけ、「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」(5)と命じられた、というのである。

 その時モーセが立っていたのは、いつも羊を飼っていた草原から少し奥に入った所であり、いわば日常生活の延長線上にある場所である。そこが今や、「聖なる土地」となった。神がモーセに現れて、彼に使命を与えたからである。

 友人の朴さんは70年代初めの韓国で民主化運動に関わったために投獄され、13年間獄中にいた。ある時、獄房で「あなたの立っている場所は聖なる土地だ!」という神の声を聞いたという。たとえ獄中であれ病床であれ、神が共に在して私たちを生かして下さる限り、そこは聖なる場所なのだ。足から履物を脱ぎなさい!

 ところで、「履物を脱ぐ」という行為には、「聖なる土地」への畏敬ということと並んでもう一つの意味がある。ルツ記4,7に、「かつてイスラエルでは、親族としての責任の履行や譲渡に当たって、一切の手続きを認証するためには、当事者が自分の履物を脱いで相手に渡すことになっていた」とある通りだ。モーセがサンダルを脱いだのは、主導権を明け渡して神に従うという意思表示でもあったと思われる。

 さて、「神の顕現」について考えたい。神は無意味にモーセに現れたのではない。モーセに使命を与えるため、そして、彼を通してこの世界に対して何らかの働きかけをするためであった。聖書の神は、多くの自然宗教の神々とは違って、単に自然現象の中に現れて畏れられたり、崇められたりするだけではない。人間の歴史に介入して、不正な支配を止めさせ、不当な苦しみに悩まされている人々を救う神である。

 モーセが生まれた頃、イスラエル民族、特にエジプトに移住したヤコブ一族とその子孫たちは、大きな苦しみの只中にあった。人口が急速に増えてエジプト王に不安を与えたことも、その原因である。王は「イスラエルの人々の上に強制労働の監督を置き、重労働を課して虐待した」(1,11)。「しかし、虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、イスラエルの人々を酷使し、粘土こね、れんが焼き、あらゆる農作業などの重労働によって彼らの生活を脅かした。彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた」(12-14)。その上に王は、子供が生まれる時は女の子だけを生かし、男の子はその場で殺すようにと命じた。

 だが、このように理不尽な虐待に苦しむ民を、神は見捨てない。神はモーセに言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出す」(7-8)。

 神は「民の苦しみをつぶさに見・・・彼らの叫び声を聞き、その痛みを知る」。神は人々の痛みを知ったという。普通、痛みは本人にしか分からない。似たような痛みを経験したことのある人なら少しは想像することもできるだろうが、それでも、正確には分からない。だが、神は私たちのどんな痛みでも正確に知り給う。そして、それをいつまでもそのままに放置しては置かれない。そのような痛みは必ず終わらせて下さる。むろん、どんな痛みでも直るのに長い時間がかかるように、「一瞬のうちに」というわけにはいかない。しかし、それは必ず終わる。

 あのナチスは、1933年から12年間にわたってヨーロッパを支配し、あらゆる悪をほしいままにしたが、10年経って闇がいよいよ深まったと思われた頃、ボンヘッファーはむしろ明るい調子で、「悪はそれ自体愚かで、自己保存の目的に適わぬものだ」と言ったことがある。自分だけの利益を求めて悪いことをすると、結局、その利益も自分の手から逃げて行く。悪はペイしない。神はそのようにこの世界をお造りになった、というのである。事実、その2年後には、ナチスは崩壊した。どんなに巨大な権力でも、神の御心に相応しくないものは必ず終わるのである。

 そして、この神の意志を明らかにするという使命を与えるために、神はモーセに現れて、彼を遣わす。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(10)。

 神が主イエスをこの世に遣わされたのも、彼の体なる教会を遣わされるのも、このために他ならない。



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