2004・12・5

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「解放の時が近い」

村上 伸

エレミヤ書30,18−22ルカ21, 25−33

 今日はアドヴェント第2主日。私たちは主イエスの誕生を待ち望む喜ばしい時の真只中にいる。それにしては、今日のために指定された福音書は余りに不吉だ。「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべも知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである」(25-26)。だが、アドヴェントに、このような言葉を読むことにも深い意味がある。今朝はこのことについて話したい。

 そもそも「アドヴェント」という言葉は、「到着する」とか「接近する」という意味のラテン語 advenio から来ている。主イエスの誕生を「救い主が到来した出来事」と捉えたキリスト教会が、クリスマス前の4週間を「アドヴェント」と名づけたのはごく自然な成り行きであった。この期間、教会はその時々の状況に応じて、「主イエスの誕生において救い主がこの世に来られた」という信仰を新たに呼び覚まし、「主よ、来たり給え」と祈った。また、先ほど私たちがルターの歌を歌ったように、「いま来たりませ、救いの主イエス」と歌い継いで来たのである。

 子供の頃、私たちは「もういくつ寝るとお正月/お正月にはたこ揚げて/こまを回して遊びましょ」と歌いながら、お正月が来るのを指折り数えて待ったものだ。幼い子供にとって、お正月は楽しいことだけが一杯詰まった最高の祝祭であった。

 だが、アドヴェントは、「お正月が来る」のと似ているようで、実は全く違う。アドヴェントは、喜ばしいだけの時ではない。確かに、「救い主が来る」のだから喜びがない筈はない。しかし、来るのはほかでもない。この世を覆っている罪と死の支配から私たちを解放して、互いに愛し合って共に生きるように招く救い主が来るのである。この方は、もちろん、深い意味では私たちを喜ばせるために来るのだが、同時に、私たちの生き方への厳しい裁きを伴って来る。もし私たちが罪と死の支配に加担し、その手先となって働いていたりすれば、そのような生き方は根本的に否定さ、悔い改めへと招かれるのである。アドヴェントはそのような時である。

 ワシントンで先週、巨大なクリスマスツリーの点灯式が行われたというニュースを見た。ブッシュ大統領が上機嫌で演説し、イラクで戦っている勇敢な米軍兵士たちを称えた。しかし、この世界に来られた救い主イエスは、決して戦争を望まれない。いわんや、それを煽り立てたりはなさらない。アドヴェントに蝋燭を灯して「いま来たりませ」と歌う人は、直ちに戦争をやめなければならない。アドヴェントとは、自らの罪を知って悔い改める時、そのことによって真の喜びへと招かれる時である。

 敢えて譬えるならば、それは外科の大手術と似ているかもしれない。癌を疑われた患者は、ルカ21,25-26にあるように、最初は、「なすすべも知らず、不安に陥る」だろう。中には、「何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失う」人もいるかもしれない。だが、優れた医者が正確な診断を下して癌を早期に発見し、問題の場所を突き止め、「私に任せなさい」と言ってメスを執り、病巣を抉り取る。その時、恐れや痛みや苦しみと共に、命が救われたという深い喜びが来る。

 あたかもそのようにして、救い主は来るのである。この世界の病気の根を正確に指摘し、それを抉り出して命を救うために、彼はこの世に来る。それは当然痛みや苦しみを伴う。しかし、それを通って初めて、真の喜びも来る。このことを心に刻むために、私たちは今日、ルカ福音書21章を読んだのである。

 この箇所のもとになっているのは、マルコ福音書13章の「小黙示録」であるが、そこには、近づきつつある終末のさまざまな「徴」、つまり前兆について書かれている。先ず、「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現われ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」(13,5-6)とある。現代のカルト指導者たちを連想させる。次に、「戦争の騒ぎや戦争のうわさ」(7)があり、「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる」(8)と言われている。これも現代の世界でしばしば見られる現実である。さらに、「方々に地震があり、飢饉が起こる」(8)。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう」(12)という。正に2004年の日本そのものではないか。これらの「徴」が私たちと無関係にではなく、現代世界の現実に当てはまるような仕方で書かれていることには、重要な意味がある。

 マルコは続けて言う。迫害が起こり、主イエスを信じる者は「すべての人に憎まれる」(13)ことになるかもしれない。しかし、それらはすべて「産みの苦しみの始まりである」(8)、と。終末の救いはすんなりとは来ない。私たちはさまざまな前兆に出会う。それは私たちを怯えさせるだろう。だが、その後で確実に喜びが来る。そして、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(13)。

 ルカは、このようなマルコの思想を受け継いで、今日のところでそれを簡潔にまとめているのである。「このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」(28)。

 頭を上げる! 高見盛という力士は、負けた時はうな垂れてしおしおと花道を引き揚げるが、勝った時は昂然と胸を張り、上を向いて歩いて行く。だが、私たちは苦しみの中でも頭を上げる。それらが「産みの苦しみの始まり」であり、「解放の時が近い」と知っているからだ。主イエスは、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」 (33)と約束された。アドヴェントとは、このような約束を確認する時なのである。



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