2004・11・21

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「恵みを無駄にしない」

村上 伸

イザヤ書49,7−9コリント第二6, 1−10

 ここしばらく、私は「生と死」ということについて説教して来た。しかし、「召天会員記念礼拝」も先週終わり、来週からは待降節(アドヴェント)に入るので、この主題は今日で一応終わりにしたい。

 先週の説教で私は、鈴木秀子さんの言葉を引用した。「人々はこの世を去る準備として人生最後の仕事をするようです。それは自然との一致、自分自身との仲直り、他者との和解という作業です」。臨終を迎える人は、明瞭な言葉で表現することは最早できないとしても、死の現実を自然の一環として受容し、自分自身を受け容れ、仲違いしていた人とも和解するという最後の仕事に心を注いでいるものだ、というのである。この最後の「祈り」を、残された者は真剣に受け止めて引き継がなければならない。その時、人生は質的に変わる。

 鈴木正久牧師は、目をかけていたある神学生がまだ若くて死んだ時、告別説教の中で、「愛する者の葬られた大地は、そのことによって神聖になる」と言ったことがある。涙と共に語られたこの真摯な言葉を、私は生涯忘れないだろう。「ちょうど球根を植えた花壇のようだ」と彼は言った。「我々はその上を乱暴にドカドカ歩くわけには行かない。それが芽を出し、花を咲かせるように見守る」。ちょうどそのように、愛する者の葬られた大地は我々にとって神聖な所となる。その人が願っていたことを受け止め、それを育てるように思慮深く、そして真剣に生きなければならない、と。

 この大地は主イエスがその尊い血を流し、そして葬られた所である。ある意味で「嘆きの大地」である。だが反面、そのことによってこの大地は神聖になった。今パレスチナやイラクやアフリカでは、多くの人が「こんなに理不尽なことがあっていいものか」と呻きながら血を流し、そのぼろぼろに砕かれた体を大地に横たえている。あるいは、先週報道されたように、拉致された横田めぐみさんの亡骸は北朝鮮の山の中に葬られたという。この大地は血に汚された「嘆きの大地」である。だが、こうしたことによって、我々には大切な課題が残された。「世界をこのような罪から解放して下さい」、また、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈り、努力するという課題である。こうして大地は神聖になった。この大地の上に、我々の教会は立っているのである。このことを忘れてはならない。

さて、ここで今日の説教テキストに目を向けよう。これは内容から見て5章11節以下の続きと考えられる。だから、そこも視野に入れて話したい

 パウロは5章15節で、「その一人の方(=キリスト)はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」と言っている。これは、今述べたように、主イエスが葬られたことによってこの大地は神聖になった、という意味に理解してもいいだろう。我々の人生には「自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きる」という明確な意味が与えられた。だから、我々は最早いい加減な生き方を続けるわけにはいかない。

 それをもう少し具体的に言えば、主イエスの最後の仕事であった「和解」の意味をよく理解し、それを受け止め、自らも和解のために生きることである。

 人間は繰り返し神の意志に背いて罪を犯すために、神と人との関係は根本的に破れている。我々がしばしば「罪の意識」に苛まれるのもそのためだ。「私は間違っていた」という意識が常に離れず、自分で自分を赦すことができない。独りでいるとき、思わず「ああ!」と呻くことがある。皆さんには、そういうことがないだろうか?

 だが、主イエスは、罪を告白して赦しを求める人をそのまま受け容れて赦した。それは、神が我々を赦し・受け容れて下さる、という真理の啓示である。和解とは、神の側から先ず我々との関係を修復して下さる、ということである。ここに注目しよう。いつまでも自分で自分を責め続けなくてもいいのだ。

 ある人が偉大なユダヤ教哲学者マルチン・ブーバーに質問した。「戒めには、隣人を自分のように愛しなさいとありますが、私はその自分が嫌で愛することができません」。ブーバーは答えた。「でも、そのようなあなたを、神は愛しておられます」。

 さて、パウロは続けて言う。「神は、キリストを通してわたしたちをご自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世をご自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(18-19)。神との和解を与えられた我々には、他者との和解という務めが授けられる、というのである。

 それを受けて6章では、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」(1)と言われる。「今や、恵みの時、今こそ救いの日」(2)である。つまり、今は「この(和解の)奉仕の務め」(3)を「大いなる忍耐をもって」(4)遂行すべき時だ、というのである。憎しみが深まり、敵対関係がどうしても克服できない時こそ、和解の務めを果たして行かなければならない。それは容易なことではない。だが、和解は主イエスの、そして我々の愛する者たちの人生最後の願い・祈りであった。

 だから、パウロは言う。「苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、偽りのない愛、真理の言葉、神の力によって」(4-7)それは必ず可能なのだ、と。そのことを信じたい。



礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる