2004・11・7

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「日々新たにされる」

村上 伸

イザヤ書40,6−8コリント第二4, 16−18

先週、我々は「土の器」に過ぎないが、その中に素晴らしい「宝」、つまり神の「並外れて偉大な力」を納めているということを考えた。「死ぬはずのこの身にイエスの命が現れる」(11)。また、「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させてくださる」(14)。それを受けて、パウロは今日のところで、「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」(16)と言う。

 「外なる人」とは何か? 前の段落に出てくる「土の器」、あるいは「死ぬはずのこの身」のことであろう。「我々の肉体」と言ってもいい。そう取れば、前半の「外なる人が衰えていく」という言葉の意味は、「我々の肉体が弱っていく」ということになる。これは現実であって、何人も、これに逆らうことはできない。聖路加病院の日野原重明先生のように、何歳になっても心身に衰えを見せない人が稀にいるが、どんな人でもいつかは衰える。肉体というものはそのようにできているのである。

 先週、弟夫婦と妹夫婦が訪ねて来て楽しいひと時を過ごしたが、弟は一年前に、義弟も数年前に癌で大手術をした経験があり、話題は自然にその方に集中した。弟は胃を全部摘出したが、そういう場合、他の臓器がそれを補う働きをするようになると言い、義弟も似たような体験を語ってくれた。私はそれを聞きながら、神は我々の肉体を驚くほど精妙に、つまり、命を守るという目的に適って「合目的的に」お造りになったと感嘆したが、反面、神は我々の肉体を「サイボーグ」のように叩いても壊れない化け物としてではなく、繊細で壊れ易く、やがては衰えるものとしてお造りになったということにも深い意味があるのではないかと感じた。我々の肉体が衰えていくのも神の知恵であって、別に悲しむべきことではない。

 さて、パウロの言葉に戻ろう。彼は「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても」と言って、先ずこの現実を認める。しかし、その後で「わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていく」と付け加える。これはどういう意味だろうか? 「外なる人」が肉体だとすれば、「内なる人」は精神のことだろうか? パウロはここで、「肉体は衰えても精神は日ごとに新たになる」と言っているのだろうか?

 ここで我々は微妙な違和感を感ずる。それは、肉体の衰弱に伴って精神も衰弱するという現実を我々はしばしば経験しているからである。「健全なる精神は、健全なる身体に宿る」と言われる。これは古代ローマの詩人ユウェナリスの言葉だが、もともとは「健全な精神が健全な肉体に宿りますように」という願いをこめた言葉だったらしい。それがいつの間にか「強い精神を持つためには強靭な肉体が不可欠だ」という意味で理解されるようになった。だが、これも真理である。私の場合、肉体の衰えに伴って記憶力とか気力といった精神の働きも減退している。だから、「『外なる人』は衰えていくとしても、『内なる人』は日々新たにされていく」というパウロの言葉は、我々の現実と合わない感じがする。しかし、これが彼の確信であることは疑えない。

 これを、パウロ自身の切実な体験を手がかりに考えてみたい。『コリントの信徒への手紙二』12章7節以下で、彼は自らの持病について述べている。「それで・・・わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです」。一説には、これは癲癇のように激しい発作を伴う病気だったという。いずれにせよ辛い病気だった。だから彼は、これを取り去って下さいと「三度も」神に祈った(8)。「三度も」というのは、「何度も何度も」ということである。彼は繰り返し祈った。だが、症状は一向になくならない。気を取り直して、また執拗に祈った。その時、彼の肉体は病み、それに伴って精神もまたぼろぼろに疲れていたのではないか。ユダヤ人は、肉体と精神を別々のものとして分けて考えることはしない。彼は、肉体的にも、そして精神的にも、参っていたであろう。

 正にその時に、神の言葉が彼を打ったのである。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(9)。「だから」と彼は言う。「キリストの力がわたしのうちに宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」

 この言葉に、我々は注目すべきである。「内なる人」とは、単に「肉体」と対比される「精神」のことではない。肉体が病み、それに伴って精神もまたぼろぼろに疲れていたこの人の人格の中に、神の力によって重大な変化が起こった。自分は体も心も弱い。しかし、その私を復活の主イエスは見捨てず、私と共に生きて下さる。弱い者が無理して頑張って強くならなければならないというのではない。弱いままでいい。その弱さの中にキリストが宿る。このように、神が「あなたがたの心の内にキリストを住まわせ」て下さる(エフェソ3,17)。だから、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇ろう。これが、我々の「内なる人」なのである。そして、それは「日々新たにされる」。「若返り」ではない。いわば我々の「生活の質」(QOL)が新しくされるのだ。

 病気は苦しい。しかし、パウロはそれを「わたしたちの一時の軽い艱難」と言う。人はその艱難を通って栄光、つまりより高い質の生に達する。今の苦しみは、「比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」(17)。ローマ8,18にもあるように、「現在の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」。これはパウロが苦しい体験を通じて得た確信であった。この栄光は、今はまだはっきりとは「見えない」。だが、我々はこの「見えないものに目を注ぐ」(18)。「見えるもの(=現在の苦しみ)は過ぎ去りますが、見えないもの(=将来の栄光)は永遠に存続する」からである。我々も、このことを信じたい。



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