2004・9・26

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「私を信じる者」

廣石 望

ヨハネ11,17-27

I

 キリスト教の中心には、〈死せるイエスは神の命の中に起こされた〉という復活信仰があります。しかしこの信仰告白を、〈死人が息を吹き返す〉という意味に理解するなら、そんなことは普通ありえません。実際にそんなことが生じたら、私たちも驚くことでしょう。そもそもキリスト教会は、死者を生き返らせる秘術を教える宗教団体ではありません。では、先ほど読んだ箇所で、イエスが「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる」(ヨハ11,25)と言うのは、どういう意味なのでしょう。

II

 この発言は、ラザロの復活という物語のなかに現われます(ヨハ11章)。エルサレム近郊のベタニア村に住む姉妹マリアとマルタが人を遣って、兄弟ラザロの病気についてイエスに知らせるのですが、イエスはなかなかラザロを見舞いにいこうとせず、そうこうしているうちにラザロは亡くなります。イエスがやってきたのは、ラザロの埋葬が終わって4日後のことでした。彼は姉妹と対話した後、墓の入り口で「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫びます。「すると、死んでいた人は、手と足を布で巻かれたまま出てきた。顔は覆いで包まれていた」(44節)。

 ですからこの物語は、一見すると、まさに〈死人が息を吹き返す〉という物語なのです。しかし物語の全体は、「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる」というイエスの言葉から理解されるべきです。すると、そこにはもっと深い意味が込められていることが分かります。

III

 「私は〜である」というイエスの言葉は、ヨハネ福音書のイエスに特徴的な物言いです。たとえば五千人に食べ物を与えたイエスは、「私が命のパンである」(6,35)と言うことで、自分が与えた贈り物と自分自身を重ね合わせています。そしてこう言います、「私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。・・・このパンを食べる者は永遠に生きる」(6,35.58)。同様に、サマリア人の女性から水を飲ませてもらったイエスは、「私が与える水を飲む者は消して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言います(4,14)。

 これらの「私は〜である」という言葉には、一つの共通した論理があります。すなわちイエスが与えるものは、この世におけるパンであると同時に、それ以上のものです。それは地上的な水であると同時に、それ以上のものです。「このパンを食べる者は永遠に生きる」「私が与える水を飲む者は、その人の中で永遠の命に至る水がわき出る」というのですから、イエスが与えるものは神の命につながっています。「私を信じる者は死んでも生きる」(25節)とは、信仰者が、この世の命よりももっと大きな神の命の中に生きることを意味します。

 その際にイエスは、この世のパン、地上的な水を否定しません。それは大切なものとして肯定されています。同様にイエスは、この世的な命と、その終わりである死を否定しません。「ラザロは死んだのだ」(14節)と彼は明言しています。さらに物語の最後の部分でイエスは、人々に向かって墓から出てきたラザロを「ほどいてやって、行かせなさい」(44節)と言います。「行かせなさい」とは、直訳すれば「彼を解放して去らせよ」、つまり「去るにまかせよ」という意味です。ヨハネ福音書は、しばしばイエスの死を〈この世から去る〉と表現します。ですから、ラザロを「解放して去らせよ」とは、ラザロが「世を去る」ことを引き止めてはならない、という意味かも知れませんね。

 それでもイエスは、ラザロの死を最終決定的なものとは見ていません。「この病気は死で終わるものではない」(4節)、「私たちの友ラザロが眠っている。しかし、私は彼を起こしに行く」(11節)とあります。「死ぬ」ことを「眠りにつく」と婉曲に表現する習慣は、私たちも知っています。しかし「ラザロは眠っている」とイエスが言うとき、それは単なる婉曲表現ではありません。ラザロの地上的な命の終わりは、最終決定的な終わりではないからです。イエスから見て、この世的な意味で「死ぬ」ことは、文字通り「眠りにつく」ことであり、だから再び「起こす」ことができるのです。自らの存在の根拠を神におく者にとって、地上的な生の終わりは、神の命との断絶をもたらさないのです。

IV

 もっとも私たちの生活は、通常、ひたすら地上的なものに限定されたかたちで営まれています。ですから、単なるパン以上の「天から」のパン、単なる水以上の「永遠の命」の水について、また「死んでも生きる」と言われる命について聞かされたとき、〈だから宗教はついていけない〉と感じても無理はありません。確かに、イエスが天の父のもとから世界に使わされた神の子であることを証明する手立ては、この世には存在しません。ヨハネ福音書のイエスも、ファリサイ派の人々に向かって、「あなたたちは、私がどこから来てどこへ行くのか、知らない。あなたたちは肉によって裁いている」と言います(8,14-15)。〈肉によって裁く〉とは、この世の規準に従って物事を判断するという意味です。この溝を乗越えるすべはあるのでしょうか。

V

 この関連で、「私は復活であり、命である。私を信じる者は死んでも生きる」というイエスの言葉から、ラザロの物語を理解するために大切なのは、「私を信じる」という表現です。

 先ほどふれた「私は命のパンである」という言葉には、「私のもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない」(6,35)と続きます。あるいは「私は世の光である」という言葉には、「私に従う者は暗闇の中を歩かず・・・」と続きます(8,12)。もっとはっきりしているのは、有名な「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である」という言葉の場合です。これには、「人が私につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。私を離れては、あなた方は何もできないからである」(15,5)と続きます。「私のもとに来る」「私を信じる」「私に従う」「私につながっている」といった表現はすべて、信仰者がイエスに対して持っている関係を表現しています。

 このイエスとの生きた信頼関係は、ラザロの物語の場合、マルタ(およびマリア)とイエスの対話を通して表現されます。まずマルタは、「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょう」(21節)と言って、イエスに向かって自らの悲嘆をぶつけています(32節のマルタの発言も同じ)。私たちは信頼していない人に向かって、胸のうちをぶつけるようなことはしません。マルタは、イエスを信じているからこそ、そうしているのです。

 しかしイエスは、この信頼を試そうとするかのように、さらに対話を続けます。そして最後に「生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(26節)と問いかけるのです。マルタは、これに「はい」と答えています(27節)。ここには、じつに生き生きとした応答関係があります。「生きていて私を信じる者は決して死なない」とは、地上の命に終わりがないという意味ではありません。むしろ、イエスを信じることを通して与えられる神の命との交流は、地上の命の終わりによっても途切れることはない、という意味です。そして「このことを信じる」とは、イエスが神の命へと復活した神の子であることを信じることと同じなのです。

VI

 ラザロの物語が示しているのは、この世の命が、この世を越える命とつながっていることです。そして、この大きな命とのつながりが、イエスとの生きた信頼関係、対話関係を通して与えられてゆくことです。そこから私たち相互の交流も始まります。物語の中で一言も言葉を発することなく、ただイエスの呼びかけに応じて、まるで〈ねぼけまなこ〉で墓から出てくるラザロの姿は、兄弟姉妹の愛情と祈りに支えられて、信仰へと呼び出された私たちを象徴しているかのようです。賛美歌にもこう歌われています、「いのちの終わりは、いのちの始め。おそれは信仰に、死は復活に、ついに変えられる復活の朝、その日、そのときを、ただ神が知る」(『讃美歌21』575番)。



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