2004・7・25

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「平和の福音を告げる教会」

村上 伸

イザヤ書9,1-6エフェソの信徒への手紙2,14−22

 私は6月20日に、このテキストで「神の家族」という説教をした。1ヵ月後の今日、同じ箇所を再び取り上げる理由は二つある。第一は、これが先週の「教会カンファレンス」のための聖句として選ばれていたこと。第二は、しかし、いろいろな事情でこの聖句についてよく考える時間がほとんど残らなかったことである。そこで、「カンファレンス」の記憶がまだ新しい内に、もう一度この箇所について考えておきたい。

今年の「カンファレンス」の主題は、「敵意から和解へ」であった。これが選ばれたのは、世界の至る所に「敵意による対立」という嘆かわしい現実があるからであり、そして、多くの人がこのことで心を痛めているからである。

この現実を最も象徴的に示しているのは、イスラエルが造った巨大なコンクリートの壁であろう。先週、この壁は国際法に違反するという「国際司法裁判所」の司法判断を受けて、国連安保理に「非難決議案」が提出された。圧倒的多数で可決されたにもかかわらず、当のイスラエルは頑として壁の構築を止めようとしない。これによって「パレスチナ紛争」はますます泥沼化するであろう。

イラク戦争もそうである。「大規模戦闘終結宣言」が出された後もテロと報復が繰り返され、敵意はますます増幅されている。主権は委譲されたものの、対立は一向に克服されない。東アジアでも、北朝鮮と米国や日本との間に敵意が存在する。北朝鮮関連のニュースが伝えられる度に、在日コリアンの子どもたちが悪質な嫌がらせを受けるのは、こうした敵意が国際政治の場だけでなく、市民の意識に深く浸透していることを示している。これが、我々の世界の状況である。

この中で、我々は「敵意から和解へ」ということを心から願い、それを目指して歩みたい。これは、M.L.キングが言ったような意味で、我々の「夢」である。

1963年8月、歴史的な「ワシントン大行進」に際し、キングは25万人の大群衆を前にして「私には夢がある」と繰り返し叫び、そして、「いつの日か、かつての奴隷の子孫と奴隷所有者の子孫とが、兄弟愛のテーブルに一緒に座るようになるであろう」と述べた。奴隷と奴隷所有者の間に融和不可能な敵意が存在したことは当然だが、努力と忍耐の時を経た後、奴隷の子孫と奴隷所有者の子孫の代になれば、両者の間に兄弟愛の関係が成り立つ日が来る、と彼は信じたのである。その日は必ず来る。そして、すべての人は敵意から兄弟愛へ導かれる。その日が必ず来る!これがキングの「夢」であった。そして、我々も同じ「夢」を共有する。敵意から和解へ!

他方、我々は「夢」を語りつつも、「夢は所詮夢であって、いつかは覚める」という不安を感じている。夢の後に残るのは、「幻滅の悲哀」ではないか。

そのような不安の中で、我々は絶望にではなく、「祈り」に導かれる。むろん、その「祈り」にも同じような不安がつきまとうだろう。どんなに祈っても戦争は止まず、テロも終わらないというのが我々の眼に見える現実だからだ。『ハムレット』の中の王は、自分の犯した兄殺しの罪を悔い、膝まずいて祈ろうとする。「かがむのだ、固い膝め」。そして王は祈るが、その後でこう嘆く。「言葉は空に舞い上がっても、思いは地上を離れない」。これは、「どんなに祈っても、自分の思いは地上の現実から離れることがない」という、万人共通の嘆きではないか。

このように、我々の夢はしばしば「幻滅の悲哀」に、祈りは「挫折感」に変わる。だが、ここで私は誤解のないように強調しておきたい。祈りは「念力」とは違う。「念力」は人間が精神の内面に持つエネルギーだから、枯渇するときがある。だが、祈りとは、人間のあらゆる可能性を超えた、永遠に確かな神への全面的な信頼なのである。だから、人間の側にどれほど深刻な問題があったとしても、祈りを止めない。「ああ、神様」と言うだけでもいい。ルターが「たとえ言葉にならない、うめきでしかない祈りでも、天に昇り、高らかに鳴り響き、神の耳に達する」と言ったように、神はその祈りを聞いて下さる。直ぐに、思い通りにはならないだろう。しかし、神は必ず応え給う。

アッシジのフランチェスコも、永遠に確かな神に全面的な信頼を置いていたからこそ、こう祈ることができたのである。「私を、あなたの平和の道具としてお使い下さい。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところに赦しを、分裂のあるところに一致を、疑いのあるところに信頼を、誤りのあるところに真理を、絶望のあるところに希望を、闇に光を、悲しみのあるところに喜びをもたらすものとして下さい」。

これは、フランチェスコだけの祈りではない。意識的であれ、無意識的であれ、全世界がそう祈っている。そして、この祈りに応えるようにして、今日の聖句が我々の心に鳴り響く。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、・・・十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(14-16)

キリストが我々と同じ人間としてこの世で生きたこと。どんな人との間にも「敵意という隔ての壁」作らなかったこと。敵をも愛したこと。その愛のために十字架上で命を捧げたこと。これは動かしようのない現実である。キリストは「我々の間に平和をもたらす努力をした」とか、従って我々にも「平和を作り出しなさい」と命じた、とかいうだけのことではない。実に、キリストは私たちの「平和である」、とパウロは言うのである。主イエスの存在自体が「平和」なのであり、最も深い意味でこの世界の現実なのである。これを「平和の福音」と言う。

我々の教会には、この「平和の福音」をたゆまずに告げる責任が委ねられている。このことを心に刻みたい。



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