2004・7・18

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「悪と戦う」

村上 伸

イザヤ書40,27-31エフェソ書6,10−20

 70年も前のことだが、スペインに内戦が起こったとき、ヒトラーがフランコ将軍の側を強力に支援したことはよく知られている。ナチス・ドイツの支持を受けたフランコはやがて政権を掌握、以後40年近くにわたって独裁をほしいままにした。その頃、1937年のことであるが、ドイツ空軍がバスク地方の町ゲルニカを空爆して徹底的に破壊し、大勢の市民を無差別に殺すという出来事が起こった。イラクのファルージャと同じことが起こったのである。

 ピカソはこのゲルニカ空爆に憤って、一枚の絵を描いた。大作「ゲルニカ」である。この絵には、フランコやヒトラーの暴虐を告発するという意図が明らかであったために、長い間スペインでは展示できず、私の記憶に誤りがなければ、ニューヨークの国連本部に置かれていた。フランコ独裁政権が崩壊した後でようやく里帰りし、今はマドリッドの「プラド美術館」に防弾ガラスで守られて展示されている。

 私は1990年に妻と一緒に「プラド美術館」を訪れてこの絵を見た。巨大なもので、この礼拝堂の幅ぐらいはあろうか。その前で、私たちはしばらく動くことが出来なかった。隣の部屋に、多分、そのための習作であろう、同じモチーフの小さな絵が何枚か展示されていて、それらと見比べると、いろいろなことが分かる。

 ここでその「ゲルニカ」をスライドで映写しよう。先ず、大きな牛が目につく。習作では、この牛はいかにも獰猛な姿をしていて、「悪」の力を象徴しているように思われた。画面の左下に死んだ子を抱いて嘆く母親がおり、右上には、独房に監禁されているのではないかと思われる人の苦しみが描かれている。歯をむき出した馬は、人民を苦しめる軍事独裁政権の象徴であろうか。だが、一番私の印象に残ったのは、中央上部に描かれた女性である。太い腕で灯火を掲げている。他の習作にも、同じような女性が必ず出てくるが、幼い純潔な少女のイメージで描かれていることが多い。しかし、この完成した絵では、彼女は意志的な顔と強い腕を持っている。そして、暗闇の中で断固として光を照らし続ける。ピカソは、人類になお残されている人間性の象徴として、どうしてもこの女性を描きたかったのだろう。

 だが、この女性を「悪と戦う教会」の象徴として理解することも許されるのではないか。パウロはエフェソの信徒たちに向かって、「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」エフェソ6,10)と言っているが、これは、ピカソの描いた女性の姿と重なるように思われる。「神の義」という灯火、あるいは「福音」の光をしっかり持って、悪が支配する暗闇の中にそれを輝かせる女性。教会は、そのような存在でなければならない。

 これに続けてパウロは、この悪との戦いは「血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするもの」(12)だ、と言う。

 今日、「カンファレンス」の会場に行く途中で、我々は「丸木美術館」に寄って「原爆の図」を見る予定だが、丸木俊・位里夫妻は「原爆」の悲惨を描く中で、人類が犯した同じような「悪」も描かずにはおれなかった。二人は「アウシュヴィッツ」を描き、「南京大虐殺」を描き、「沖縄戦」を描き、そして「水俣」を描いた。ピカソの「ゲルニカ」と同じで、人類が犯した暴虐を長く記憶に留めて告発し続けるためである。

 だが、丸木さんの場合は表現の仕方が違う。例えば、「南京大虐殺」は、日本軍の兵士たちが中国の女性や子ども、お年寄りたちに対して行った一つ一つの暴虐を極めて写実的に描いている。ほとんど見るに耐えない。これに対してピカソの「ゲルニカ」は、個々の悪行を写実的に描くことをせず、その根本にある「悪」を象徴的に表現しようとした。この点で、「ゲルニカ」は聖書に近いように思われる。ピカソにとって戦うべき相手は「血肉」、つまり「個々の人間」には止まらない。むしろ、「支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊」だと彼は考えたのではないか。

 教会が「悪と戦う」のは、正にこの意味においてである。教会は個々の人間を動かす根源的な悪、「支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊」と戦う。そのために教会は、ピカソが描いたあの女性のように、福音の光を掲げて「邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと」(13)立たなければならない。

 さて、「ゲルニカ」については、もう一つのことを考えさせられる。あの女性は「武具」を全く身につけていない、ということである。これはピカソの見識を示すものだ。ダビデが凶悪な敵ゴリアトに立ち向かうとき、鎧も兜も脱いで丸腰で歩いて行ったように、「悪」と戦うには、「悪と同じ方法を用いない」という覚悟が絶対に必要である。そうでないと、同じ「悪」にはまる。戦う意味がない。

 その意味で、エフェソ書の「神の武具を身に着けなさい」(11)という言葉にはやや抵抗を感じる人もいるかも知れない。

 しかし、注意せよ。ここで「武具」と言われているのは攻撃用の武器ではなく、身を守るために必要な最小限の「服装」なのである。「真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶりなさい」(14−17)。

 最後に「霊の剣」(17)とあるが、これも「霊の剣、すなわち神の言葉」と説明されているように、人を殺すための剣ではない。むしろ人を生かす神の言葉、つまり「平和の福音」である。教会が「悪」と戦うとき、「悪」の最強の武器である「暴力」は使わない。「悪」と戦う教会の武器は、「非暴力」である。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝て」(ローマ12,21)。これが、悪に対する教会の戦いなのである。



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