2004・6・27

「霊による一致」

村上 伸

エゼキエル書 11,14-21エフェソの信徒への手紙4,1−6

 使徒言行録によると、主イエスの復活後 50 日目に聖霊、つまり目には見えない神の力が弟子たちの上に降って、代表ペトロは力強くイエスが主であることを宣べ伝え、その日のうちに 3000 人以上の人がその信仰を受け入れて洗礼を受けたという。彼らは一つの共同体を形成して、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」 (使徒 2,41-42) 。それ故に、聖霊降臨日は「教会(エクレシア)の誕生日」と言われる。その意味もあって、私は当分、「教会」を主題として説教したいと思う。

 「教会」のことをギリシャ語で「エクレシア」というが、これは「エク」(外へ)「カレオー」(呼ぶ)という言葉から来ている。つまり、「エクレシア」とは「呼び出された」人々が形づくる共同体のことである。

恐らく、皆さんの多くは、「神によって呼び出された」と感じずにはおれないような経験をお持ちではないだろうか。私もそうである。

私が洗礼を受けて教会の一員になったのは、 1947 年(昭和 22 年)のクリスマスであった。 60 年位前の話だが、その頃の記憶は今も鮮やかだ。軍国少年として当時の国策を丸ごと信じていた戦時中のこと、戦後の混乱と絶望、その中でたまたま聞いたただ一つの聖句、そして間もなく通うようになった教会での牧師との出会い、新しくできた兄弟姉妹――これらすべては、私にとって「神の招き」としか考えられない。私は、「この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていた」 ( エフェソ 2,12 ) それまでの生活、神に対して「遠く離れていた」(同 13) 生活から「呼び出された」のである。

 福音書を読むと、最初の弟子たちも、自分たちの暮らしのことしか考えていなかったそれまでの生活から、イエスによって新しい使命へと呼び出された。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(マルコ 1,17)

 このように、教会(エクレシア)とは、イエスにより、神によって呼び出された人々の共同体のことである。単なるクラブではなく、営利を目的とする団体でもない。ましてや、この世の支配者に従属する組織ではない。その意味では NPO( 非営利組織)や NGO( 非政府組織)の一種と言えるかもしれないが、それとも違う。

 どこが違うか ?

 教会は、聖書を通して、また、イエス・キリストによって、全人類に関わる神の意志を知らされ、それを証言し続ける団体であるという点ではないだろうか。

先週、私はエフェソ書 2 章について、とくに、イエスが「十字架によって敵意を滅ぼされた」 (2,15) ということについて語った。主イエスは、人間が二つに分かれて対立し、互いに憎み合ったり殺し合ったりすることが全く無意味であるということを、身をもって示した。そして、「互いに愛し合う」ことが人類にとって最も大切な「新しい戒め」であり、永遠の神の意志であることを、ご自分の命に代えて徹底的に明らかにした。これが「平和の福音」であり、教会はこれを語り続ける。

 もちろん、 NGO や NPO の中にも、「人道のため」・「世界平和のため」といった気高い目的のために努力している尊敬すべき団体は多くあるし、我々もこれら善意の仕事には協力を惜しまない。だが、このような仕事を人間の「善意」だけで支えることができるだろうか ? 善意は尊い。人は善意を持つべきだ。しかし、善意は一旦裏切られると持ちこたえられない。人類の歴史は、残念ながら憎しみや悪意の方がずっと強力であり、ある状況では個人の善意が全く無力になることをを示している。

ここで信仰が必要である。信仰とは、我々の「心の持ち方」というようなものではない。我々の心理状態を超えるものだ。我々の気持ちは時にぐらぐらするし、弱くなる。しかし、そのような自分の心理状態とは関係なく、神は真実である。どんなときでも、「キリストはわたしたちの平和である」 (2,14) という根源的な事実は揺るがない。このことを信じる。これが信仰である。「私は確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできない」(ローマ 8,38-39)

この信仰こそ、人道や世界平和を追求するすべての仕事を支える究極の根拠であって、これをたゆまずに語り・証し続けることが教会の使命なのである。初代の教会が、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ること」ことへと呼び出されたのは、この使命のためであった。

今日の箇所で使徒パウロは、「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩みなさい」 (1) と勧めている。教会という「神から招かれた」共同体には、それに相応しい在り方というものがある、それは、「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和の絆で結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」 (2-3) ということである。これについては殆ど説明の必要がないであろう。神に呼び出された共同体には、分裂や争いは相応しくないのだ。

だが、一致は単純に人間の努力によって達成できるものでもない。神には分裂がなく、神のあらゆる御業には聖なる統一があるということを本当に信じるときに、初めて一致は我々に与えられる。だからパウロは、「霊による一致」 (3) と言う。「体は一つ、霊は一つ」 (4) 「一つの希望にあずかる」、さらに「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一である」 (5-6) という表現も、すべてこのことを表しているのである。



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