2004・1・4

「決して滅びない言葉」

村上 伸

イザヤ書 40,3−8マルコ福音書 13,28−31

 明けましておめでとう! だが、皆さんの多くは「明るい希望に溢れて新年を迎える」わけにも行かなかったのではないか。大晦日恒例の「いろはカルタ」(毎日新聞)を見ても、そう感じられる。大部分は苦い笑いを誘う「ブラックユーモア」だ。食に関する不安を現すものに、「コイ患い」(養殖鯉の大量死)、「モーいや米国牛」(BSE)というのがあった。広い意味での環境問題では「トキ既に遅し」(日本産トキの絶滅)。イラク戦争関連では、「イラク難儀だ」、「穴蔵では不戦意」(フセイン元大統領の逮捕)、「前文読みの九条落し」(小泉首相の詭弁)。北朝鮮問題では「拉致があかぬ六カ国協議」。国内の話題では、「ぬれ手で米やサクランボ」(農産物の盗難)、「総裁人事どろどろ公団」、「運転酔々高速バス」、「視聴率買いの職失い」(TV局の不正)、「縁につけ込むオレオレ詐欺」など。

 いずれも、現代世界の混迷ぶりを示している。明るい話題も少しはあった。だが、すべてはスポーツ関連だ。「二冠の大器世界新」(水泳の北島)、「ルーキー松井また松井」(米大リーグ)、「谷亮子になりました」(柔道の田村亮子)、そして、もちろん「夢かない虎ファン乱舞」(阪神優勝)! 「暮れは曙」(K1の曙)というのはやや苦しい。

 こうした重苦しさの中で、我々は新しい歩みを始めた。だからこそ、「ローズンゲン」が選んだ今年の年間聖句、「イエスは言われる。『天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない』」(マルコ13,31)が意味を持ってくるだろう。

 実は、イザヤ書40,8にもこれとよく似た聖句がある。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。イザヤは、身近な草や花の自然現象の中に「いのち」のはかなさを見た。「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。草は枯れ、花はしぼむ」(6-7)。そして、それと対比して「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と、神の言葉の確かさを強調したのであった。

 これに対してマルコは、「いちじく」という自然現象に言及してはいるが、基本的には歴史的に考えている。13章は全体として後期ユダヤ教の「黙示文学的な」考えを色濃く反映している箇所で、一般に「小黙示録」と呼ばれているが、その中心にあるのは「終末論」である。マルコが「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言ったのも、その意味である。

 一体、「終末論」とは何か? これについては、昨年、ヨハネ黙示録に基づく連続説教の中で度々触れた。大雑把に言って、その特徴の第一は、直線的な歴史観である。歴史は同じことの繰り返しではなく、始まりがあり、そして終わりに向かって直線的に進む。従って第二に、一刻一刻・一日一日にはとり返しのつかぬ固有の意味がある。しかし第三に、歴史の始まりと終わりは偶然ではなく、愛と義の神のみ手の中にある。神が、歴史の支配者であり、「アルファ」・「オメガ」である、等々。

 マルコ13章には、このような終末論が展開されている。先ず終末に先立って種々の「徴」(4)、つまり前兆が現れる。たとえば、メシアを自称する者があちこちに現れて人を惑わす(6)。戦争の騒ぎや戦争の噂が人々を不安に陥れる(7)。民族と民族、国と国が互いに激しく対立する(8)。地震や飢饉が相次ぐ(8)。迫害やあらゆる苦難が、正しい者たちを襲う(9)。宇宙的な規模で異変が起こる(24−25)。その後で初めて世界に終わりが来るが、それがいつ来るかは神以外には誰にも分からない(32)。ただ、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」(13)。「救われる」とある以上、終末論は単純な「滅びの教説」ではない。確かに、「天地は滅びる」。現在の世界は終わらなければならないが、それと共に万物が更新され、最終的な救いが来る。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない!」とイエスが言うのは、その意味である。そして、「わたしの言葉」とは、「神の国は近づいた」(マルコ1,15)という福音、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13,34)という新しい戒めに他ならない。それには、すべての「いのち」は守られなければならないという内容が含まれている。

 初めに神は、深い愛をもってこの世界を美しく・善く造り、それに「いのち」を与えられた。そして、それを保持される。これが神の永遠不動の意志であるということを、イエスは言葉と行ないをもって明らかにした。これが彼の「道」であり、「いのち」であり、真理である。これは、たとえ天地が滅びようとも、決して滅びない。

 私は最近、A・シュヴァイツアーに惹かれる。彼は第一次大戦の悲劇に遭遇して苦しんだ末に、「生命への畏敬」という思想に達し、その上に倫理の基礎を据えた。彼は言う。「善とは、生命を維持すること、生命を振興することである。悪とは、生命を絶滅すること、生命を阻害することである」(『文化と倫理』)。単純明快だ。

 ところが、人類は「いのち」を阻害し・絶滅しようとする。この「悪」に加担することを一向に止めない。最大の悪は言うまでもなくテロや戦争だが、それだけではない。親や教師たちによって子供たちに加えられるいわれなき暴力も「悪」である。さらに、自然の暴力的破壊も「悪」である。昨年も繰り返し報道されたように、途方もない量の有毒な産業廃棄物が美しい山林や水源地に近い山奥に不法投棄されているという。

 しかし、神はこういう「悪」をそのままに放置されないであろう。いつかは、それにも終わりが来る。「天地は滅びる」という言葉は、そういう意味ではないか。そして、主イエスの言葉、すなわち、神の国の福音・愛の戒めは決して滅びない。これが、今年も我々に与えられた神の約束なのである。



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