2003・6・8

子供たちへのメッセージ「せいれいのチカラ」

村上 進

使徒言行録 2,1-4;ルカによる福音書 8,43-48

イェスさまが十字架にかけられ、死んでよみがえられ天に昇られたあとも、お弟子さんたちはずっとよわむしでした。イェスさまを十字架にかけた祭司やファリサイ派の人たちが、「このチャンスにイェスの弟子どもをみんな捕まえてしまおう。」と追いかけてくるのが怖かったのです。だからいつもみんなで集まって、扉も窓もかたく閉じて鍵をかけ、ひそひそと暮らしておりました。

その日はイェスさまが死んで49日目の日でした。 今日もよわむしのお弟子さんたちは、みんなでびくびくしておりました。

扉がガタン、と音をたてました。 みんなはびくっ、として黙りこみました。 ごくっ。 誰かがつばをのみこむ音。 はぁはぁという息づかい。くちびるはかさかさ、指の先がつめた〜くなってきました。

また扉がガタン、といいました。 それから、びゅう、と風のようなものが扉のところから吹いてきました。 そのとき、ふしぎなことがおきたのです。

よわむしのお弟子さんたちの首のうしろ、背中のところがあったかくなってきました。まるでイェスさまが、うしろからぎゅうぅっと抱きしめてくれたような感じがしました。みんなのこころに、ぽっ、とあかりが灯りました。だれもがイェスさまといて楽しかったこと、すごかったことを思い出してお話をはじめました。

「あのガリラヤ湖の冷たい嵐を、ひと声でしずめて下さったんだよね。」
「ガリラヤ湖っていえば、先生の言う通り右側に網をおろして、すごい大漁だったことがあったねぇ。」
「そうそう、ペテロが調子に乗って水の上を先生の方へ歩いていって、途中でビビって沈んだっけ。」

みんなのこころの中に「イェスさまってすごい。」「イェスさまってすごい。」がたまってきて、ついにはじけてしまいました。みんながいっせいにしゃべりはじめたので、部屋中が蜂の巣のように、わーん、と鳴っているようでした。みんなの体が熱くなり、指の先までじんじんしびれるようでした。体から湯気がぼぼぼっと立ち昇り、頭のうえでかげろうのようにゆらゆらしました。

ペテロさんが窓と扉をばーん、と開け放つと、その「イェスさまってすごい。」は、街中へ、世界中へ広がって行ったのです。

今日ここにいるオジさんたち、オバさんたちもそうなのです。イェスさまのお弟子さんたちがこの日世界中へ飛ばした「イェスさまってすごい。」が、こころの中に満タンになっちゃって、「そうだ、ここに教会をつくらなくちゃ!」と働いたので、ここ、上原三丁目に教会が出来たのです。 このオジさんも、このオジさんもです。(と、前列に座っている信徒を指す)そう言えばもう天国にいってしまったけれど、いつもこの辺に座っていたおじいさんもそうやって働いた一人です。

私も、そうです。 私もこのように「イェスさまってすごい。」がはじけちゃったので、みんなにこうやって、イェスさまの話をしないではいられないのです。 だから教会学校の先生をやってるの。

私の一番好きな、イェスさまのお話をひとつ、しますね。

12年間も病気だった女の人がいました。 何とか治りたいとお薬やお医者に財産を使い果たしてしまったけれど、ちっとも良くならなかった。それだけじゃない。ユダヤの決まりで、「けがれた病気」と決めつけられていたから、誰に会うことも許されなかった。12年間、誰にも手をつないでもらえず、もちろん、抱きしめてもらうことも、キスしてもらうこともなく、この女はけがれている。バイキンだ。えんがちょだ。 そう言われつづけ、かたく窓と扉をしめきって、一人ひっそりと暮らす毎日だったのです。

この女の人が、イェスさまのうわさを聞きました。イェスさまにさわってもらえさえすれば、どんな病気でも治るらしい。 そう聞くといてもたってもいられなくなりました。 イェスさまがこの町にいる間にさわってもらえなければ、もう一生この病気は治らないかもしれない。 ああ、でも、この私にさわることは、あの方に許されてはいない。私に触れたら、あの方は律法やぶりの罪で捕まってしまう。

悩みました。 そしてついに決心しました。 誰だか気づかれないように頭から布をかぶり、この女の人は町へ出かけてゆきました。そして、人ごみにまぎれてうしろからそうっとイェスさまに近づくと、誰にも気づかれずにイェスさまの服のはじっこに、ちょっとだけ、さわりました。

そのとき、女の人は自分のおなかのところに、今まで経験したことのないやさしい温かさがひろがるのを感じました。そうです! この瞬間、12年間も悩まされ続けたこの人の病気はすっかり治ってしまったのです。 女の人は自分の病気が治ったのを確信すると、すばやくイェスさまから離れて家へ帰ろうとしました。

そのときです! イェスさまが突然ふり向いて言われました。

「私にさわったのはだれかな。」

周りのみんなは顔を見合わせました。そこでペテロさんが言いました。「先生。こんなにみんなが押し合いへしあいしているんですよ。 先生に触っちゃった人なんて百人はいますよ。」 イェスさまは言いました。「ペテロ、そうではない。私を今日、本当に必要としている誰かが、今わたしに触れたのだよ。」さっきよりも大きな声です。 まわりの人々も立ち止まって、ざわざわしはじめました。

女の人は、これではもう隠れていることは出来ないと思って、恥ずかしさとおそろしさでぶるぶる震えながらイェスさまの前に出ると、本当のことを話して、「ごめんなさい」と言いました。イェスさまは、

「おじょうさん、あなたでしたか。 あなたの病気は今日すっかり良くなった。 あなたが心から信じたから、そうなったのだよ。あなたはもうけがれてなんかいない。安心して、元気で暮らしなさい。」

女の人が恥ずかしくて震えているというのに、とても大きな声でそう言いました。

なんでだろう?

服にさわっただけで、この人の病気はすっかり治っていた。 この人の一生に一度の願いは、もうかなったんだ。なんで、そのまま、そっと帰してあげなかったのかな?

(それは、みんなにもこう伝えるため。「あなたはもうけがれてはいない。これからはお友だちがたくさんできるといいね。」) イェスさまってすてきでしょう?

私たちがイェスさまからもらう聖霊のチカラは、

かたく閉じた扉を開くチカラ。 切れていたものを、元どおりつなぐチカラ。

イェスさまの姿はもうここには見えないけれど、聖霊はここにある。

ほらここにも。(空中を指さす)

ここにもある。(自分の胸を指さす)

ここにも、ここにも、ここにも。 (最前列の子供たちの胸を指さす)

今日のおはなしはこれでオシマイ。



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