平山正実 講演会

「心と体の健康について」

〜心の病を負う人と看護する人へのメッセージ〜

 近年、「心の病」の問題が、さまざまな視点から取り上げられるようになりました。急激な変化と大きなストレスを伴う現代社会では、大人にとっても子どもにとっても、「心の病」の問題は他人事ではありません。私たちの教会も、青年会を中心に、この主題に関心を寄せてきました。
 平山正実氏はクリスチャンの精神科医として、長年この問題にとりくんでこられた方です。今回、私たちに身近な視点から、講演をしていただけることになりました。

2005年1月23日(日)13:30-15:00
於: 代々木上原教会


<講演>

歴史と伝統のあるこの教会にお招きいただいて感謝します。最初に私のライフヒストリーを申し上げておきたいと思います。

私は大学に入って二年目に教会を訪ねまして、求道し、受洗しました。その教会では戦争中に、官憲から牧師が「天皇とキリストとどちらが大切か」と問われ、「キリストの方が大切だ」と答えたために捕らえられ、牢屋で拷問にあって死亡したのです。その時から、信仰というものは命がけだということを深く感じているわけです。

塾で勉強をしていた時、先生をしていた方は視覚障害者でした。 私が医学部に進学したのも、身体障害という人間として極限の状態にありながら、人々に貢献している姿勢に影響を受けたこともあったからだと思います。

大学では一人の男性に出会い、親しい友人となりました。クリスチャンで内村鑑三に学んでいる人でしたが、のちに統合失調症にかかり精神病院に何度も入院しました。 そういう体験から、私には精神医療について他人事ではない思いがあったのです。

その方はやがて病気がやや寛解し、商社に勤めるようになったのですが、二年後にビルの屋上から飛び降り自殺をしました。亡くなった後で私宛に遺書が届き、「君はこれから精神医療をやるのだから私の苦しい思いをわかってほしい」というようなことが書かれていました。当時の私にとって、信仰を持っている人が自ら死を選ぶことなど思ってもみなかったことでした。また精神医療を学んで人を助けようと思っていたそのスタート地点で最も身近な友人を救うことができなかったことで、私は深く考えさせられました。

だからこそ、人と人との出会いは決して偶然ではなく、そこに神様の意思があるのだということを、実感を持って感じています。

心の病をもつということは、「厄介者」と同居するということではなく、その中に神が宿っているということです。 そういうメッセージ性というものを一生涯――それを解決することができるかどうかはわかりませんが――背負って生きていく覚悟を持たなければならないと思っております。

心の病に対する教会の役割はとても重要だと感じています。教会には心を病んでいる方、またそのご家族がたくさんいらっしゃいます。例えば息子がひきこもりになり、わらをもつかむ思いで教会に来られる方がいます。

障害の理由はなぜかと弟子が問うたとき、主が「神の業がこの人に現れるためである。」(ヨハネ9章3節)と答えられたことの意味を考えてみましょう。このときの弟子の問いかけの原点は因果論です。「行いが悪いから」「環境が悪いから」などの理由で病気や障害の説明をつけようという発想です。 そこからコペルニクス的転回をして、「なぜ」ではなく「何のために」病気になったのか、という方向に、つまりいわば意味論の方向に、キリストは目を向けたのです。

昔は心の病についてのいろいろな偏見があり、信仰を患者に押し付けるので宗教者は出入りしてはならないという規制を打ち出している病院がよくありました。最近ではセカンドオピニオンという枠組みのなかで、医療従事者と教会(宗教)がネットワークを組んで協力して治療に当たるようになってきています。

心の病の本質を周囲の人が知らない場合も多くあります。知らないということは、たいへん恐ろしい。情報の有無が生死を分ける場合すらあります。 例えば先日のスマトラ沖の津波で、大被害を受けた地域のただ中にある小さな島で、100年前の大津波の際に生まれた「波が引いたら逃げよ」という言い伝えが残っていた島では、潮が引いたとき村民がいっせいに高台に逃げて、ほとんど被害者が出なかったと報道されています。

周りの人が病気を正しく理解しないために患者を傷つけたり、その結果、病状を悪くしてしまうことも少なくありません。多くの方々は心を病む人に対し、腫れ物にさわるように接したり、差別と偏見の色眼鏡で見たりしがちです。

精神科の治療と教会の牧会との違いについても、関係者はお互いをよく知っておく必要があります。精神科に受診したら「教会に行くな」と言われた。教会に行ったら「薬に頼ってはいけない」と言われた――そういうお互いの無理解から生じる誤解と間違った指導は問題です。

「精神」「こころ」あるいは「たましい」という概念をどう捉えるかも問題です。これらの言葉はまぎらわしく、実際にしばしば混同されています。 精神科では何を扱い、教会では何を扱うのでしょうか。

まず「精神」について、聖書に書かれているところを参考にしてみましょう。

テサロニケの信徒への手紙一5章23節では、「あなたがたの霊も精神も体も」と3つの概念に分けて説明しています。つまり「霊」(ギリシア語でプネウマ)と「精神」(プシュケー)と「体」(ソーマ)が区別されています。しかし訳によっては「精神」のところを「心」あるいは「魂」と訳したりしています。

申命記28章28節には、「主はまた、あなたを打って、気を狂わせ、盲目にし、精神を錯乱させられる。」 箴言16章2節には、「人間の道は自分の目に清く見えるが、主はその精神を調べられる。」とあります。

テモテへの手紙一6章4-5節では、「・・・議論や口論に病みつきになっています。そこから、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争いが生じるのです。これらは、精神が腐り、真理に背を向け・・・」と書かれています。

実際、私たちの日常生活の中では嫉妬、邪推、中傷などがあります。その結果、精神が錯乱してしまう人もいます。社会の対応が悪くて、嫉妬、邪推、中傷などのストレスを受け止めてもらえず、やがて精神症状を呈するようになる人がいるとすれば、精神的なストレスに対処するのが宗教で、錯乱をした精神に治療を行なうのが精神科の領域となり、双方の協力、チームワークが必要になります。

「心」というのは、最近は心療内科などでよく使われる言葉です。聖書では、「心」は感情や意思、知性を包含する概念として使われています。

「知性」を病むとどうなるでしょうか? 集中力が落ち、認知の障害が起こります。そういう人を、表面的に見て、コミュニケーションが下手だ、自閉的だ、引きこもりだとみなすケースが多いのです。実際には、相手の言っていることをきちんと把握し、自分の考えをまとめて、他人に理解できるような仕方で提示する能力に障害があるだけなのです。しかし周囲からは、何を考えているのかわからない人と思われてしまいますし、医者ですら、「この患者は自分の言うことをちゃんと聞かない。何を考えているのかわからない」と感じて距離を置いてしまうことがあります。

「感情」を病むと鬱(うつ)、罪責感、役にたたない人間だという感情が強くなってコントロールできなくなり、最悪の場合は自殺に至ったりします。

「意思」を病むと、何もかもが面倒くさく、億劫になる精神的症状が出たり、人前に出ると心臓がドキドキするといった身体症状が出たりします。それを周りの人たちは、甘えている、怠けていると見てしまう。 しかしそうではなく、やろうと思ってもできないのです。 やろうと思ってもできない人に「怠けている」「甘えている」とレッテルを貼ることが、さらにその人を追い込み、引きこもりを強くするのです。

うつになりやすいとされているタイプの人は、律儀で真面目で、罪の意識を強く感じる傾向が強いので、こういう人たちには特に牧会的な配慮が必要です。

人格障害の領域では、自我が分裂し、優越感と劣等感を統合できないということがおこりやすい。こういった人たちは自己内省力と洞察力が鋭く、自分を厳しく責め、他人の不完全さや偽善を見抜いて失望します。

触法精神障害の人、すなわち窃盗や万引きなど、社会からの逸脱行為を繰り返す人、また薬物依存症の人もいます。しかしその背景は一様でなく、生まれつき脳に生理学的な障害があるとか、アスペルガー症候群、脳微細症候群など、出産時の外傷によって引き起こされる発達障害などのケース、さらにもともとの障害に加えて、成長段階で「言うことを聞かない子ども」として虐待の対象となり、そうした「二次的外傷」(トラウマ)により逸脱行為を起こす人が少なくありません。

触法精神障害の場合、その行動が社会的にみて悪い行為ということで、本人を罰するという方向に行きがちです。周囲が倫理的・宗教的な「律法モデル」によって安易に裁いてしまい、本人をさらに傷つけてしまうことが少なくありません。本人の障害の状態や育ってきた環境まで含めて、よく考えた上でものを言うべきです。

「霊」について聖書の中に書かれていることを、精神医学とのかかわりから見てみましょう。

士師記9章23節には、「神はアビメレクとシケムの首長の間に、険悪な空気を送り込まれたので、シケムの首長たちはアビメレクを裏切ることになった」、またサムエル記上19章9-10節には、「主からの悪霊がサウルに降った。・・・サウルがダビデを壁に突き刺そうとねらったが、ダビデはサウルを避け、槍は壁に突き刺さった」、という記事が書かれています。

信頼していた人の裏切りが引き金となって精神を病むケースがあります。 しかも聖書は、神がそういう「悪い霊」を下すことがあると言うのです。なぜ神は、わざわざそういうことをなさるのでしょうか。

危機的状況に陥ったことで教会の門をたたく人もいることを考えると、もしかしたら生活の中に危機的状況が入ってくることで、聖なるものを見る目、聖なるものに自らを開こうとする心が生まれるのかもしれません。どういう状況にあっても、そういった「修羅場」の中に含まれている神の意思、救いの要素に目をむけて、拾い上げていくべきだと思います。

精神科医として教会にお願いしたいことの一つは和解、ゆるしの問題です。 人間の共同体には必ず争いがあります。衝突、紛争、葛藤が生じたとき、とりなし役となる人が世の中には非常に少ないのです。

例えば身内の誰かが精神を病んでいて治療をしている場合、その事実を隠しているケースが多いのです。別にわざわざ表ざたにする必要はありませんが、隠していることで患者の周りの人々に葛藤と衝突が起こることがあります。そしていったん衝突が起こると、たいてい「他人のせい」にします。例えば子どもが心を病んでいる場合、父親は母親の育児のせいにし、母親は父親が仕事にかまけていることを責め、子どもは「どうしてオレを生んだんだ」と言う。人のせいにすれば一時的に自分は楽になりますから。しかし責められた方はつらい。亀裂はますます広がり、一家はばらばらになってしまいます。

老人介護も同じ問題をはらんでいます。痴呆になった老人が「お金を盗まれた」とふれまわることで家族の中に争いが生じるといったケースです。

このような家族の中に調整役がいない場合、教会がその労をとる必要があるのではないでしょうか。「どうしてこんなに苦しい病を抱えて生きなくてはならないのか」「これは神が与えた罰なのか」「神はいないのか」――そう問う方が大勢いらっしゃいます。

イスラエルの保健社会学者アーロン・アントノフスッキー(1923-1995年)は「健康生成論(サリュートジェネシス)」という理論を唱えています。「健康」「障害」「生」「死」を一体で捉えて、全体としてバランスがとれていればよいという考え方です。この考え方で行けば、病む家族がいても、その家族全体の中に隠されている治癒力、生きる力を喚起してゆくことができるはずです。

医者は、「病健二分論」「死生二分論」に立って、悪いところを切除することが治療だと考えがちです。しかし精神医学の場合、脳を取っちゃうわけにはいきませんから(笑)、病んでいる部分も健康な部分も一緒に生きていかなくてはならないわけです。つまり「病健一元論」「死生一元論」でゆくしかありません。

強迫神経症で「確認恐怖」という症状があり、何度も確認しないと気がすまない人が、ある製造メーカーに就職し、確認することが仕事という製造ラインに勤務して、かえってその病的な確認癖を生かして活躍しているというケースもあります。

精神障害のある人たちの中には、音楽や芸術の分野で頭角を表わす人もいます。ある製薬メーカーが社会貢献活動のために募集した絵画コンクールに入賞したことがきっかけで、絵の才能に目覚めて、これを伸ばしている人もいます。

ですから「障害」というとき、「害」の字はよくないですね。マイナスのイメージがある。英語ではdisorderといいます。orderは秩序、dis-は反語の接頭辞ですから、「秩序から外れている」という意味です。この「秩序から外れている」ということ自体に「悪い」という意味は含まれていません。そもそもプロテスタント(抗議する者)は、秩序(体制)から外れてできた宗派ですから、私たちはみなdisorderなのです(笑)。

常に苦しんでいる人は、神を意識せざるをえない。それを「宝」と思うことで、周囲の病んでいる人を見る目が変わるはずです。役に立つかどうかで見るのではなく、そういう宝を見つけることが大切です。



<質疑応答>

Q: 教育、医師、教会の3つに関わっておられる先生ご自身の、教会での役割としての「とりなし」のわざをご紹介いただければ。

A: 教会では心を病んでいる本人が来ることはあまりなく、家族が来ることの方が多いです。 親子関係で問題があるような場合は、ご本人と両親、それに牧師と私とで4者面談をします。まずそこが守られた空間であることを知らせる必要があります。牧師や医者は守秘義務があります。牧師、医者、訪問看護師、精神保健福祉士などがネットワークを組んでうまくいったこともあります。訪問することで「殻が破けて」ひきこもりが治ったケース、家族内の争いに4者面談で調整がついたケースなどです。

「お神輿」型の医療が大切だと言っています。しばしば患者は底辺に押しやられて踏みつけられているが、そうではなく逆に教会関係者、家族、医師が力を合わせ、患者を足元から担いで、その重荷を共に負うことが必要なのです。英語で「理解する」はunderstandingといいます。underは「下」、standingは「立つ」ですから。相手の下に立ち、相手を理解することができれば、半分以上は解決したようなものです。



Q: 地域社会の中で心を病む人たちのケアに関わっていますが、そういう人たちの中には、いったん自分の病気をオープンにすると、その後は「自分は大切にされて当然」と思っている人がいます。私たちに至らない点があると非難され、そのことを言いふらされてしまうのです。どう対処したらよいでしょうか。

A: ケアを提供する援助者にも限界がありますから、いつもうまく行くわけではないのは当然です。心を病んでいる人でなくても、人間関係では誤解や行き違いがあります。相手に根気良く説明すること、もしこちらに負い目があるような場合はまず謝ることが大切でしょう。そこから再生がはじまるのです。そういう地道な努力を繰り返して信頼関係は築かれてゆくものです。関係をこちらから切断してしまったらそこで終わりです。



Q: 心を病む人は現代社会にはたくさんいると思いますし、慢性病など肉体的な病気も含めて、病との共存は重要な課題です。教会の中での心の癒しと、精神医療の現場でのそれの両方に関わっている先生の立場から、その差異と共通点を「病健一元論」を踏まえて説明していただければ。

A: 「健康」はhealthといいますが、この言葉の中には語源的に、whole(全体) holy(聖なる) heal(癒し)といった意味が含まれています。いわば多義的な概念です。

WHO(世界保健機構)による「健康」の定義では、健康とは身体的、精神的、社会的、霊的健康を含み、単に疾病のない状態ではないとあります。健康な状態を維持するため、いろいろな職種の人が関わって、ネットワークを組んで治療に当たるということは、この概念の実践に他なりません。

しかし微妙なところで違いはあります。ルカによる福音書17章11-18節に、イエスが10人の「重い皮膚病」の人をいやす場面があります。イエスはこの人たちに「祭司のところへ行って見せなさい」と言いましたが、その中の一人だけがイエスを賛美しながら戻ってきた。 この人はサマリヤ人であったという記事です。

ここには身体的癒しと宗教的癒しの差が書かれていると思います。魂の救済に至った人は、この一人であり、明確に書き分けられています。

ただ他の9人も、どこか別のところへ行って神を賛美したのかもしれない。戻ってきた一人は、イエスの下で、より宗教的な仕事に就いたのかもしれない。癒しと救いとの差をあまりに強調するよりも、全体として見れば、人間にとっての幸せを提示したイエスの力をほめたたえるべきでしょう。

精神医療のゴールは、精神の安定です。安全で安心な暮らしができること。しかし「魂の救済」の場合は、その結果いつも安心で安全な暮らしが保証されるわけではなく、むしろ神の真実に向かい合うとき、緊張や葛藤が生じる場合もあるでしょう。しかし究極的には、祈りや学びを通して、平安を得ることになると信じます。



Q: 触法性の精神障害者に対する周囲の姿勢について。そういう患者は本人の取り組みがなく治療を拒否する場合があります。その場合、周囲の人々の人権保護のために治療を強制すべきですか。

A: 病気の状態が悪ければ悪いほど、本人は平気だと思っています。それは教会も同じかもしれないですね(笑)。そういうケースは、多くの場合、親が相談に来ます。妄想などが出ている場合はやむを得ず、無色無臭の薬があるので、それを「だまして」飲ませる場合があります(本人の同意なく飲ませているのでこれは人権上問題なのですが)。精神保健福祉法によれば、精神障害者は「治療及び保護」の対象であると記されています。例えば、自傷他害の可能性のある患者や徘徊老人の事故防止などのために、治療するだけでなく保護が必要になる場合があります。しかし保護するといっても拘束することになるわけで、人権上の問題があり、そこに精神科医としてのジレンマがあります。ケースバイケースで正解はないのですが、信頼関係を築きながらうまく病院へ来てもらうことが基本です。例えば親の診察だといって、当事者が付き添いだということで病院に来てもらったり、精神病といわず頭痛の治療ということにしたり・・・。受診してもらうには、じつに涙ぐましい努力があります。



Q: 幼稚園のこどもに関わっています。年齢のわりに出来るはずのことができない、他の子とちょっと違うということが見えてくることがあります。 しかし親から相談を受けても、親にはやっぱり障害だとは思いたくない気持ちがあることがわかるので、アスペルガー症候群だとか発達障害だとかは言えず、なんとなくなぐさめを与えることしかできていないのです。ひたすら愛してあげてくださいとか。

A: こういったケースで一番問題なのは、正確な情報が親や周囲の人に伝わらない、親はそれを最後の最後まで認めたがらず、結局は手遅れになることです。正しい病気の知識に関する情報を提供し、事実を正しく認識できるようにすることが第一です。第二に、子どもがそこにいることで安心でき、安全に保護されていると感じることのできる環境を作ることです。



記録・文責 村上 進

【講師プロフィール】
平山正実(ひらやま・まさみ)――1938年生まれ。北千住旭クリニック院長(医学博士、精神保険指定医)。日本ナザレン教団北千住キリスト教会会員。東洋英和女学院大学大学院教授、聖学院大学総合研究所客員教授。厚生労働省、臓器移植検討会議委員および臓器移植提供者の家族(ドナー家族)に関する心情調査委員会委員。NPO法人 グリーフ・ケア・サポート・プラザ(自死遺族に対する精神的支援団体)理事長。日本臨床死生学会理事長。日本医学哲学倫理学会名誉会員。聖書と精神医療研究会理事 その他。
主たる著書に『心の病と信仰』『心の健康と聖書』(袋命書房)、『心の病Q&A』(いのちのことば社)、『心の病の治療がわかる本』(法研)、『死生学とは何か』(日本評論社)など


代々木上原教会ホームページにもどる